傍に居るなら、どうか返事を


「成歩堂 龍一」

 名前を呼ばれ、意識は現実へ戻る。変わることなく、眉間に皺を寄せた響也は不機嫌な表情を成歩堂に向けていた。
 昔の面影はそのままに、響也は確かに大人になっていた。横に巻いた髪は霧人のそれを思わせるけれど、響也は確かに彼のままだったし、そうでなければ、自分は『牙琉響也』を検事席になど立たせなかっただろう。
 そうして真実が明らかになり、響也の知るところではない、彼が兄から受けた手酷い仕打ちを、霧人に償わせてやりたいという秘やかな成歩堂の願いも成就された。
 あの日、自宅へ戻り娘の笑顔を見た時、痛んだ胸は尋常では無かったのだ。もしもみぬきが…そう思えば、それを身に受けた響也の絶望がどれ程のものなのかと、追いつく事のない想像が成歩堂を責め続ける。
 恐怖と怒りとそして悲しみにグチャグチャになった顔は既に過去のものになっていたが、響也の中には沸々と息づいているに違いなかった。

「ちょっと、アンタ。話…聞いてる?」

 呆れた声色。成歩堂は帽子に手を掛け目深に下げ、響也から目を外した。
「いや、走馬燈のように人生を振り返っていたところだ。」
「………人の話を聞かない性格、ホントに変わってないね。何? 人生、それにしちゃ短いんじゃないの?」
 懐かしむでもなくそれだけ言うと、響也は呆れた表情で口を閉じた。
 沈黙の中で視線がどうしても響也に向いてしまうのを、成歩堂は苦笑しながら修正する。
 あの出来事以来、響也は兄の事務所に近付こうとはしなかった。元々接点の乏しいふたりは顔を会わせる事も殆どなく、こうして間近で彼を見るのは随分と久しい。
 贖罪の気持ちとは別の何かが成歩堂の中には息づいていた。
 それを誤魔化す為に、成歩堂は口を開く。
「だったら、うん。さっきの話だけど。犬にでも噛まれたと思って…噛まれた事だって忘れられるものではないけど、忘れたらどうだい。
 君に納得のいく答えなんか、僕はあげられない。贖罪の言葉もいらないと君は言ったんじゃなかったかな?」

 人は死ぬ前に走馬燈の如く人生を見る。さっき見たものがそうなら、今はこの想いを、響也が殺してくれないだろうかと成歩堂は願った。
 それでやっと、燻り続けた想いは死を迎える事が出来るはずだ。いい加減しつこいだろうとも思うのだが、それが性格なのだから仕方ない。
 浮かんだ幼馴染みの顔に苦笑する。

「ただ残念だけど、起訴出来ても強制猥褻罪…になるのだろうね。直腸への挿入には、強姦罪は認められない。」
 恐らく、響也の逆鱗に触れるだろうと発した言葉に、聞こえてきたのは笑い声だった。戻した視線に、響也は不敵な笑みを浮かべて見せた。
「残念だったのは、アンタだよ成歩堂さん。あれは強姦なんかじゃない。」
 響也の言葉に成歩堂は瞠目した。目の前にいる青年の唇が弧を描いていくのを、瞬きを忘れて凝視した。
「確かめる為に鎌をかけただけだ。あれは、合意の上の行為だった。アンタは僕を無理矢理に従わせたと思い込んでたみたいだけど。」

 まぁ、あんな状態だったら、何も覚えてないならそう思うかもね。

 響也の告げる言葉のひとつひとつが、頭の中で耳鳴りのように聞こえていた。
「だから、アンタも臆病者だって言ったんだよ。」
 酷く挑発的な表情で響也は嗤う。
 七年前の裁判で見せた強行な態度とそれはよく似ていたが、あの頃とは違う確かな強さが響也の中で根付いて居ることを感じさせた。
 目の前にいるのは、可愛い印象のみが強かった未成年の若者ではないのだ。改めてそう感じて、それでも尚、胸の想いが消えない事に成歩堂は驚いた。そんなにも、自分はこの青年に惹かれていたのかと想うと苦笑するしかない。

 ふたりだけの空間は、豪快なノックの音と共に豪快に開かれた扉で終わりを告げた。飛び込んできたみぬきは、父親とそして響也の姿に驚いた様子で目を瞬かせる。
「あれ?」
「やあ、お嬢さん。」
 にこと響也は微笑んで、みぬきの視線に入るように膝を軽く曲げた。そんな些細な仕草に、娘がきゃっきゃとはしゃぐのを成歩堂は複雑な気分で眺めた。
「牙琉さん。どうして、パパのところにいるんですか?」
「シュミレーションの元締めである成歩堂さんにご挨拶をね。」
「元締め!悪の総裁みたいで格好いい言葉ですね。」
 鼻息の荒いみぬきをオイオイといった表情で、王泥喜が背中から眺め、躊躇いがちに口を開く。
「邪魔…しちゃいましたか?」
 困った表情で、成歩堂と響也を交互に見た王泥喜に、しかし響也はにこりと笑った。あの裁判の後に、因縁のふたりが話をしている…王泥喜としてもそれは気を使ってしまうはずだ。
「いいや、全く。挨拶もすんだからもう帰るところさ、じゃあね、成歩堂さん。」
 スルリと横を抜ける響也が、ぽんと成歩堂の肩を叩いた。
「お嬢さんの前で、これ以上話は出来ないだろ? 連絡して、携帯の番号は変えてないから。」
 小声で囁かれた言葉に、成歩堂は視線だけで同意を返した。



 未練がましく削除出来なかったアドレスに連絡し、呼び出されたのは牙琉の事務所だった。
 成歩堂が脚を踏み入れその閑散とした室内に瞠目する。最後に此処に来たのは、牙琉霧人が犯行に及ぶ前だったから、成歩堂の記憶にあるのは七年間変わらない佇まいだけだ。書類やら何やら粗方運び出された室内で、上着を脱ぎ、袖を捲り上げた響也が、荷造りをしてる。積まれた品々は、彼の罪状とは無関係な私物らしい。
 成歩堂が声を掛ける前に気付くと、中に入れと手招きをした。

「驚いた?」
 笑みを浮かべる響也に、成歩堂は頷く。
「捜査員達がめぼしいものを全部持っていったみたいだよ。まぁ、引き払うつもりだったから、好都合と言えば、好都合だけど。」
「引き払うのかい?」
「うん。働いていた人達に退職金やら払わなきゃいけないし、何よりあの人にもお金が随分掛かるからね。」
 テキパキと荷物を仕分ける響也に、躊躇いがちに兄の品物を扱っていた面影はない。何をするでもなく、ぼぉっと眺めていれば罵声が飛んで来た。
「ちょっと、何の為に呼んだと思ってるの? アンタの私物もあるんだから片付けてよね。」
 見れば、確かに成歩堂の持ち込んだ品物も其処に放置されている。
 やれやれと怠い動作で響也の隣にしゃがめば、横に積まれた真っ新なダンボールをひとつ、成歩堂に寄こして来た。これに入れて持って帰れという事だろうと組立ていれば、ポツリと響也が話を始めた。

「覚えてる?」

 響也が顎で示した場所には覚えがあった。壁紙に酷い傷を残したお陰で、霧人にも散々嫌味を言われ、張替費用を請求された場所だ。
 比較的新しい壁紙の下には、今でも響也の爪痕がしっかりと残っている。
「覚えてはいるよ。記憶はしていないけどね。」
 成歩堂はそう答えて苦笑した。確かに、行為の記憶は成歩堂には無かった。前後の状況のみで思い込んでいただろうと響也に指摘されたが、全くその通りだ。弁護士時代、証人の記憶の曖昧さに突っ込んでいたはずなのにと思うと、浮かぶのはやはり苦笑だ。
 それに対して、響也は声を上げて笑った。
「弁護側の素直な対応が良いね。アンタが僕の腕を固定したのあれを防ぐ為だったみたいだ。もう少しやりようもあったと思うけど、酷く酔ってたみたいだったから手加減無しだった。」
「響也…くん?」
「アンタさ、兄貴の名前呼んだんだよ。僕を抱きながら。」

 (…汚いぞ…。アンタ知ってて…僕を)

 そうかと成歩堂はひとり語つ。
 だから、合意の上でとは言ったけれど、響也は自分を罵ったのだ。心神喪失状態の相手は罪を問う事は出来ない。けれども、やりとりの中で、響也は成歩堂が意識を保っていたと誤解したのだろう。
 しかし、霧人の名を呼んで響也を抱くのだって、充分に許されざる行為には違いない。
「…悪かった…ね。」
「悪いに決まってるだろ。」
 きっぱりと言い、響也は大きな溜息をつく。しかし、彼の言い分はごく当たり前の事だ。
 成歩堂は、肩を竦めて作業を再開する。
「ホント酷い男だよ、アンタ。
 壊れものを抱くみたいに僕に触れてきて、そんなに、兄貴が好きなのかって思って、どうして僕じゃないのかって思って、でも、どんなに似てたって、僕は兄貴になんかなれないって知ってる。」
 響也は雑誌を束にして紐で括りながら言葉を続けた。淡々と作業をこなしながら、まるで人事のように話す言葉は、感情を差し挟まないよう配慮している分だけ、響也の痛みの深さを感じさせた。
 衝動的に抱き締めてやりたくなって、けれども成歩堂はそれを押し留める。
あの時欲しかったのは君であって霧人じゃないと、そう告げる言葉に、今更何の意味があるというのか。本当に響也を好きだと告げたいのなら、あの日何があっても彼を放していけなかったはずだ。

「だからアンタを嫌いになる理由を必死で探した。
 気持ちが断ち切れる決定的な証拠が欲しくて、調べて、調べて、調べ尽くして。
 でも残った結論は、アンタの罪状じゃなくて兄貴に対する疑念で、捏造の証拠もあの夜の出来事も、全てが兄貴への疑惑という一点に流れ込んでて愕然とした。」

 ぽとりと、水滴が雑誌の表面を濡らすのが見えた。
 
「真実は、僕達のものじゃなくてアンタのもので。だから僕は、理由を探し続けなきゃいけなくて、でも、もう、こんなの嫌だ。はっきりとした言葉を僕におくれよ。」
 俯いたままの響也を成歩堂はただ見つめた。
 彼の口から告げられた想いが、いままで信じていたそれと余りに違っていて、思考が上手く繋がらない。
 あの時、断ち切らなければと頑なに信じていたものは、未だひっそりと胸の中に息づいていて、ふいに現れては成歩堂を嘖んでいた。
 同じ想いが同じ年月だけ響也の中にもあったというのだろうか。

「君の言う通り、僕はこう見えても寂しがりやの臆病者だ。気持ちを受け入れてしまったら、その腕を離せそうになかった。それが、どんなに有害なものになるだろうとわかっていても。掴んでしまった腕を離す事が出来ないんだ。
 だから、酷い事をしてしまったのがわかっても、それで君が僕を大嫌いになって、離れてくれればいいとそう思っていたんだ。」
 飲み込んで、飲み込んで絶対に口から出る事はないだろうと思っていた言葉を吐く己がどんな表情をしているのだろうかと成歩堂は思う。
 きっと情けなく、哀れな表情に違いない。 
「みぬきが君のファンでね…。」
 ポツリと成歩堂は呟く。
「君の映像をね、僕の隣でさ、それこそコマ送りで見てたりするんだよ。」

 まいったね。

 成歩堂は、困って、ただ笑う事しか出来なかった。いたたまれない想いに押されて全てを吐く。

 目が離せなくなって、言葉が詰まるんだ。画面の中で笑う君の姿に。
少しも薄れていない面影が、胸の中で蘇る。忘れさせてくれないんだ、余りにも鮮やかで。

「随分と時間が経ってしまったが、君が好きだよ。」


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